先輩(せんぱい)の ページ

Connecting Futures 2023 - 「つな豪未来」の様子です。フォーサイス伊織さんMCによるトリビアクイズ大会で盛り上がったあとは、参加者は軽食を食べながら和やかに親交を深めていました。日本にルーツを持つテニスのRinky Hijikata選手からのビデオ挨拶もありました。日豪プレス記者によるイベントの記事 もご覧ください。

国際繋生語大会 2023年 9月1日 - 3日》

MCはフォーサイス伊織さん

小グループに分かれてトリビアクイズ大会。1位〜3位までのグループは賞品をゲット。

ジブリはみんな知ってるよね?

日本にルーツはあるんだけど、あまり日本語は話してこなかったんだよねー、というあなた。

日本語も英語もバッチリ!日本にもめっちゃ精通しています!というあなた。

オーストラリアに越して来たのは中学生のとき、英語だとシャイになってしまう・・・というあなた。

いちおう親は日本出身だけど、日本はまったく別世界、というあなた。


似ていたり違っていたり、背景のさまざまな人々と知り合って、ネットワークを拡げませんか。

豪州日本研究学会研究大会/国際繋生語大会  特別イベント

「つな豪未来」Connecting Futures 

2023年9月2日(土)18時~20時

入場無料 終了しました


日本と繋がる若者の集い Connecting Futures【つな豪未来】は

子どものころから日本と繋がる若者コミュニティ JAFCO (Japan Australia Future Connections) 発足の記念パーティーです。

日本と繋がる若者のみなさん、お誘いあわせの上、ぜひいらしてください。


先輩の活動

 ボランティアなど

★  読み聞かせの会がTBSテレビで放映されました(2023年3月4日)★

ここをクリックすると最初の部分が見られます

この会では、繋生語の児童を対象とした読み聞かせのセッションを定期的に企画しています。毎回、先輩方がボランティアとして参加してくれます。読み聞かせの他に、参加した児童の工作のお手伝いや生演奏などもしています。ボランティアにご興味のある方は、下記のリンクからお願いします。

http://jpf.org.au/yomikikase/

先輩の読み聞かせに夢中。

先輩の生演奏にうっとり。

七夕の歌も生演奏の伴奏付き。

最後は七夕の短冊作り。先輩もお手伝いしています。

先輩向けリンク集

先輩向けのコミュニティ、セミナー、ワークショップなどの情報です。

オススメの情報がありましたら、keisho.australia (at) gmail.comまで、ぜひ、ご連絡ください。

コミュニティ

セミナー・ワークショップ情報

Coming soon!

イベント情報

先輩紹介: 繋生語の元こどもたち

 このコーナーでは、研究会の活動に協力してくださった先輩たちを紹介します。

2022年5月14日(土)の第9回目のJapan Foundation Japanese Language Education Seminar With UNSW セミナー『繋生語の元こどもたちは、今』で、4名の若者がご自身の貴重な体験を語ってくれました。以下、パネリストのみなさんのご感想です。

注:豪州繋生語 (けいしょうご) 研究会(Australian Network for Japanese as Community Language)ニュースレター  2022年6月 第5号より抜粋(青色部分)The interview was conducted in English and translated into Japanese by Dr Yuki Itani-Adams. For the original interview, please go to the English page in this site. 

Coming soon!

次回の先輩紹介も乞うご期待。

ニーナさん「うちの繋生語」後編

5月のセミナー「元繋生語キッズは今」でパネリストとして参加していただいたニーナさんの事を覚えていらっしゃる方も多いと思います。今回はそのニーナさんに再び登場していただき、日本とオーストラリアの2つの言語、文化とともに過ごしてきたこれまでの人生についてお話ししていただきました(2022年7月3日)。

井谷 由(オーストラリア国立大学)

インタビュー(Y:井谷由; N:ニーナ)


Y: ・・・それに「いただきます」や「ご馳走さま」は単なる言葉だけではありませんよね。生活の中でのものの見方考え方でもありますよね。 

N: そうですね。私は人生の今の時点でこう思えるところまでたどり着いて本当に嬉しいと思っています。もっと早くにいろいろなことがわかっていたらよかったと思いますが、必要なプロセスだったんだと思います。もし幼い頃にもっと日本語や日本の人と接触があったら違っていたかもしれません。前のセミナーの感想にも書いたように、田舎に住んでいて他の文化の人たちや日本人コミュニティーが周りになかったので、いろんなことを分かち合える人がいなかったんです。私たちの事や私たちが言ったりやったりすることに対して誰もどうしてそうなのかわかってくれる人はいなかったし、日本食もなかなか手に入らなかったし。(ゆきさんも)田舎に住んでいた経験があるからわかると思いますが。

 

Y: そうですね。我が家の経験からは支えてくれる人たちの大切さについてお話しできるかもしれません。前に住んでいたところでは日本人家族は私たちだけでした。日本人の私と日本語が話せない夫と子ども三人です。アジア系の家族といえば他に中国系の家族が二家族いたぐらいです。子どもたちは町にある普通の小学校に通っていました。都会から比べると小さい学校でしたね。学校では毎晩親と一緒に本を読んでその記録をつけるという読書日記というのがあったんです。そしたら、担任の先生が、その先生は他の言語はお話にならなかったんですけど、子どもたちが家で読む本は何語の本でもいいですとおっしゃったんです。それでその先生に「(子どもと一緒に)日本語の本を読んであげてください。日本語の本を読んだ日はその本の名前を読書日記に記録してください」と言われたのでそうしました。

N: ええ〜本当に?すばらしいですねぇ。私も学校の先生がそう言ってくれていたら随分違っていたと思います。

私は小学校5年生の時にオーストラリアの学校に転校してきたんですが、英語を書くのが苦手で一度宿題ができなくて恥ずかしい思いをしたのを覚えています。日本語を使ってはいけないと言われたし。オーストラリアの教育では日本語を使わないから、学校で日本語を使う意味がないといえばないですけど。

当時は日本の友達と連絡を取りあうというのもできませんでした。ソーシャルメディアとかはもっと後で出てきたんです。もし当時にそういうものがあったら連絡を取りやすかったかもしれません。本当に残念ですけど当時の友達とは誰とも連絡を取っていません。

でも、今はいろんなことが私が小さかった当時とは違いますね。オーストラリアではなぜかほとんどの学校で日本語を教えていますよね、それは本当にラッキーなことだと思います。それに、日本や日本の文化や食べ物に興味を持っている人が多いでしょう。つい先日も考えていたんですが、もしもどこか他の国の出身だったら、学校とかがその国に対して興味を示さなかったかもしれなくて、いろんなことがもっと難しかっただろうと思うんです。

 

Y: そうですね。日本のポップカルチャーやアニメなどクールだと思われていますよね。知っているという人や(自分も)見るという人や少なくとも聞いたことはあるという人は多いですよね。

N: ええ。Tik Tok やインスタグラムみたいなメディアも、若い人に影響を与えますね。良くも悪くも。今のティーンエイジャーって(私たちとは)全く違う経験をしていると思います。今はいろんなものがオンラインでアクセスできるから。私自身はソーシャルメディアばかりやっているわけではないんですが、でも日本人アーチスト数人フォローしています。ソーシャルメディアやポップカルチャーのことばかり言いたくないですけど、私自身影響を受けたっていうのは認めざるを得ません。

先ほど、言語は二番目だと言いましたが、それは重要じゃないという意味ではないんです、だって言葉は日本と繋がるためにはすごく大事な部分ですから。でも、アイデンティティーの問題を考え始めるまでは日本語を勉強しようなんて思えなかったですね。なぜかというと、私の中では日本語を勉強することで他の人と違ってみられてしまうと思っていたからです。みんなから、あなたは日本人だから日本語を勉強するのは当然よね、とか。なので、わざと避けていたというところはありました。

先ほどお子さんの通っていた学校の先生のおかげで安心して日本語が使えたとおっしゃっていましたね。私の場合、自分は変じゃないんだと思えたのは、大学で橋本先生のような人たちとの出会いがあったからです。私は(みんなから)はみ出しているなんてことはなくて、ごくフツーで、ハッピーで日本と繋がっていることはとても素晴らしいことで、私はまたとないチャンスに恵まれているのだからそれを利用しなくちゃと思えたんです。

こういう壁を乗り越えてやっと日本語が楽しく思えるようになったんです。

 

Y: 深いですね。大変な時期を過ごした後にご自分の立場をもっとポジティブに見られるようになって戻ってきたというわけですね。セミナーでお母様がニーナさんのことをハーフじゃなくてダブルだと言ったとおっしゃっていましたね。あれが良い反響があったんですよ。そのダブルということについて何かお考えがありますか。あれはニーナさんのことを呼ぶためにお母様がご自分で考え出された言葉なのでしょうか。

N: さあ、どうでしょう。母は私たちが小さい時からそう呼んでいたんじゃないかなと思います。日本で住んでいた時は私たちのような家族がたくさんいて子どもたちはいつもこれの(この国籍の)ハーフとかあれの(あの国籍の)ハーフとか言われていました。でも、きっと母にとっては私たち子どものことを半分と呼ぶのは筋が通っていないと思ったんでしょう。だって、半分って一体どういうこと?考えてみると、ハーフってハーフ日本人っていうことですよね。半分だったら日本人の資格がある。じゃ、例えば四分の一とか他の割合だったら?自分のどれだけが日本人かなんて関係なく、日本人は日本人ですよね。他の人と同じように一人の人間で、でも私たちは2倍ある。

 

Y: もっとあるということですね。

N: そう、もっとあるということです。日本人としては私の全部が日本人でプラス私は100パーセント日本人。オーストラリア人としても私の全部がそうで100パーセントオーストラリア人。違う人種の親を持つ子どもたちが日本でどう言われているかというのは興味深いですね。日本のハーフという考え方には色々と問題があると思います。私が思うにハーフという言葉はよく半分白人半分日本人という意味で使われがちだと思います。でもいわゆるハーフの子どもたちの中にはラテンアメリカ系だったり、黒人だったり、中国人や韓国人だったりする子どもがたくさんいますね。こういう子どもたちはあまりメディアでも取り上げられていないと思います。(こういうことが)今後変わっていくといいです。ハーフという概念も。

これ(ハーフという言葉)は日本人であるというのはどういうことかという問題につながると思います。ハーフという言葉は少なくとも半分は日本人であるという意味でしょうか。民族的には日本人だけど、日本語が話せるかどうかという点で完璧な日本人としては認められない。私にとっては変わらなければならないと思う壁がたくさんあると思うんです。日本の中で少しずつでも変わっていってくれるといいです。それと日本人とは何かという概念も変わっていってくれたらいいと思います。

私が自分の「日本人であること」について受け入れることができたことの一つには誰に何と言われようとも私は日本人であるということなんです。ここにたどり着くことができて自分は本当に幸福だと思います。「日本人として扱ってもらえないから自分は日本人じゃない」と思っている人はたくさんいると思います。

そう思っている人に日本人になるならないは自分で選べるんだと教えてあげたいです。どんな法律も社会的なプレッシャーも個人の自分が何人であるかというアイデンティティーを左右してはいけないと思うんですよね。

ダブルの子どもたちにそう思えるようになってほしいです。周りと合わせなくてはというプレッシャーは大きいですね。でも本当はそうしなくてもいい。選べるんですよ。

 

Y: 周りの人に(自分のアイデンティティーを)決めさせないということ?

N: そうです。私自身も全く反対の方向に走って自分の「日本人の部分」を全く受け付けなかったかもしれない。私のことを日本人として受け入れてくれないんだったら、そんな人たちの仲間になりたくないわ、みたいな。

 

Y: そうならなくてよかったです。

N: うん、面白いですね。私もまだ手探り状態ですけど。ここではあんまり関係ないかもしれませんが、二重国籍の件も興味があるんです。その、二つ国籍を持ってはいけないという。誰かにダメだと言われるというところが。でも、これももしかしたら私が人に指図されたくないといういじっぱりな性格だからかも。でも、両方はダメでどちらかを選ばないといけないというのが嫌なんです。

 

Y: 本当に複雑ですね。

N: そう、本当にそうなんです。でも、それもこれも全て良い意味でです。同じような経験をしている人たちに対して思いやりというのか理解してあげられます。

マルチカルチャーな背景がある人たちにはいろんなハードルがあると思います。私は生まれた文化が日本とオーストラリアですごくよかったと思います。

面白いのは、一旦自分は日本人だと受け入れると、今度はオーストラリア人という方でもっともがいているんですよ。

 

Y: それはどういう事ですか。

N: オーストラリアの植民地時代の歴史をご存知でしょう。オーストラリア側の歴史を受け入れるのがちょっと難しいですね。それから、あんまりオーストラリアとアボリジニーの歴史を知らないんです。それと、オーストラリア人って何ですか、ですね。ここが私の居場所でしょうか、とか。多分、そうだと思うんです。ここが大好きだし、将来もここに住むと思いますね。自分の一番メインの国としてオーストラリアを選びますね。でも、植民地時代の歴史のことはよく知らないし、自分とは関係のないことのように思えるんです。家族(祖先)のこともよく知らないし。なんでもイタリアから来たらしいですけど。たとえ両親がオーストラリア人だとか言ってもそれってどういう意味でしょう。

 

Y: 難しいですね。

N: そうなんです。今は日本人としての意識が強いので、オーストラリア人としてのアイデンティティーとの格闘の方が日本人としてのアイデンティティーより難しいです。

何事にも良い面と良くない面があって、答えはたった一つじゃないですね。

国境やパスポートがあって、法律でみんなそれぞれ何人ですとなるんですが、結局は私たちみんな人間なんです。

 

Y: 考えないといけないことがたくさんあるんですね。

N: まだ途中の段階です。

言葉は素晴らしいですね。人とコミュニケーションすることができますから。

日本語を学んでいる子どもたちには、自分の好きなことを通じて、日本語を学んでいってほしい。スポーツかもしれないし芸術かもしれないし、なんでも自分たちが興味を持てるもの。それってアイデンティティーとかいろんなものが混ざった、もっと大きなものにつながると思うんです。

私は個人的にアイデンティティーについてよく考えたり話したりする方だと思います。でもそんなことをあまり考えないで過ごしている人たちも大勢いるかもしれない。もしそうだったら、それってスゴいことだと思うんです。

理解してくれる人と自分の経験を共有したり、話し合ったりすることで自分のことがもっとわかるようになる。(時間がかかるので)辛抱強くなければなりませんが、素晴らしいことだと思いますね。

 

Y: ああ、本当に素晴らしいですね。

N: そうですね。今日はお話を聞いてくださってありがとうございました。

 

Y: こちらこそありがとうございました。

今日は色々お話が聞けてすごく楽しかったです。また、いつか一緒にお話ししたいですね。

N: 本当、またお話ししたいです。今日は私も本当に楽しかったです。

 

【終わり】

ニーナさん「うちの繋生語」前編

5月のセミナー「元繋生語キッズは今」でパネリストとして参加していただいたニーナさんの事を覚えていらっしゃる方も多いと思います。今回はそのニーナさんに再び登場していただき、日本とオーストラリアの2つの言語、文化とともに過ごしてきたこれまでの人生についてお話ししていただきました(2022年7月3日)。

井谷 由(オーストラリア国立大学)

インタビュー(Y:井谷由; N:ニーナ)

Y: 今日はインタビューに応じてくださってありがとうございます。

N: こちらこそお招きいただきありがとうございます。

 

Y: ニーナさんには元繋生語キッズとしてセミナーにも参加していただきましたし、ニュースレター5号にもセミナーについての感想を書いていただきましたね。すごくいい反響があったんですよ。

N: それは嬉しいです。

 

Y: 繋生語キッズの親御さんや先生方が日本と繋がっている子ども達自身がどう思っているかというのに大変興味があることが伺われますね。

二つの文化や二つの言語と一緒に育つというのは本当にどういう感じですか。

他の言語が話せたり他の文化に触れたりできるのはすばらしいとか、考え方が広がるなど聞きますけど、もっと複雑なのではないかなと思うんです。

N: おっしゃる通りです。いろんなことが押し寄せてくるという感じなので、嫌なことや大変なことばかりについて考えないようにしないといけないんです。二つの言語や二つの文化を持つのはとてもいいことですが、実際はそれ以上のものだと思います。

 

Y: ニーナさんのおっしゃる「それ以上のもの」というところをお聞きしたいです。ニーナさんご自身は精神的に日本からわざと離れていた時期がおありだったんですよね。

N: はい。

 

Y: どんなプロセスがあったのかとても興味があります。きっと他の親御さんもだと思いますよ。私自身もそうなんですが、親御さんの中には、子ども達にいつも何らかの形で日本とのつながりを持たせないといけない、すこしでも遠のかないようにしてあげないと思っている人が多いと思います。それが日本語を通してなのか文化を通してなのかはそれぞれだと思いますが。

なので、ニーナさんが(精神的に)「出たり入ったり」しながら大きくなって、今は日本とより強いつながりを感じているというのはとても興味がありますね。

N: そうですね、たぶん私が育ってきた過程からお話しするのが一番いいかもしれません。私は日本で生まれて、私が3歳で、姉が5歳の時にメルボルンに引っ越してきたんです。それで、また2年後に日本に移りました。小学校は日本でやりました。姉は小学校全部、私は大半を名古屋で行きました。

母は当時日本でシングルマザーをしていたんですがオーストラリア人で日本とオーストラリアの教育の違いを知っていたんです。なので、姉が中学校に入る前に母はどちらの国でどんな学校に姉を入れるか考えたんです。

日本に残ってインターナショナルスクールに通わせるか、オーストラリアに帰るか、大きな決断で私たちみんなで一緒に決めました。日本で普通の中学校に通うというのは私たちにとっては最良のオプションとは思えなかったんです。それで、母がタスマニア出身だったのでみんなでタスマニアに引っ越して、こちらで学校に通い始めたんです。

私たちが行った学校はバイリンガルスクールとかではなく普通の学校でした。母は私たちにオーストラリアの教育を受けさせたかったんだと思います。今から考えると正しい決断だったと思います。日本の小学校はすばらしいですよね、でも中学校・高校は大変だと思います。

 

Y: 私自身も通ってきた道です。随分昔のことですけど。学校も今は随分変わっていると思いますが、オーストラリアと比べるとやはり違うでしょうね。

N: オーストラリアの学校で自分で考える自由とか創造性が養えるというのが大きい理由だったと思います。それから私たち自身のオーストラリアのバックグランドを知るということもです。それから言語、この場合は英語ですけど。当時は私の英語はそんなに良くなかったんです。話すのは話せましたけど、読み書きができなかったんです。なので、オーストラリアに戻るというのは私の英語にとっても大事なことだったんです。

私たちはタスマニアの北西の海岸沿いにある田舎に戻ってきました。タスマニアでは日本の人もあまりいません。私が小さい時は日本人家族が何家族かいたんですが、年齢的には私たちよりも上だったと思います。13歳の子どもは自分から出かけて行ってコミュニティーを見つけるなんてことはしませんし。

 

Y: そうですよね。

N: 子どもって目立たないで周りに合わせたいと思うんですよね。それで、オーストラリアに帰ってきた時に日本語を全く使わなくなったんです。

 

Y: それは、自分からやめようと決めたんですか。それともただ自然に?

N: その両方だったと思います。母はいつも私たちが日本語を話すように言ってくれました。日本にいた時は、私たちに家では英語を話してほしいと言われました。英語を話さないとお小遣いから罰金として決められた瓶にいくらか払わないといけなかったんです。結局は長続きしませんでしたけど。タスマニアでは日本語を続けられるように家では日本語を話すように言われました。(日本語でも英語でも)普通に周りにない場合は維持するために使い続ける努力をしなければならないと母はわかっていたのだと思います。

新しい町で自分だけ浮かないようにするという意味で、特に学校でアジア系は私たちだけだったので、私は必死に周りと同じようになろうとしていました。つまり、アジア系であることから距離を置いて、オーストラリア人になろうとしていたんです。母が私が通っていた小学校で日本語を教えていたので、日本語は自分の周りにもあったんですけど、絶対話したくなかった。恥ずかしかったんです。みんなににあいつは変な奴だと思われると思ったんです。みんな英語を話していて、他の言語を話す人は誰もいないんですよ。だからスーパーに行った時とかに母に日本語で話されたりすると、「いや、お母さん、やめて」という感じでしたね。

 

Y: そういう話聞いたことあります。

N: それとか、お弁当がピーナッツバターサンドイッチじゃなくておにぎりだったりしたら、それも「お母さん、やめて、恥ずかしい」という感じでしたね。

 

Y: あら、私も子どもにおにぎりを持たせましたよ。ひどいことをしたのかしら。

N: 私が変わったきっかけは14歳の時に日本語を教えていた他の学校に転校したことだと思います。その学校では日本からの交換留学生がいたんです。タスマニアで普通の日本人のティーンエージャーに会うなんてすごいセンセーショナルなことだったんです。その時に、自分はその子と話したければ話せるので、「私ってクールなんだ」と思えたんです。それからですね、日本語の授業をもっと真面目にとり始めたのは。

高校で日本語を学習して、書道大会にも参加したりしました。本当に素晴らしい先生と良い仲間に恵まれたおかげで自分の中の恐れや恥ずかしい気持ちを気にしなくてよくなったんです。

(それは)その人その人の性格と周りの友達がどんな人かによるかもしれませんけど。

でも、時には頭がいいというのはマイナスな面もあって、オタクっぽく思われることもあって、学校の時は日本語を勉強している人って往々にしてオタクだと思われることがよくあると思うんです。私はもちろん人気者になりたかったので、そういう日本語とのつながりを隠そうとしていました。

この世で一番好きなことはアニメを見ることだったんですが、それも友達には隠していました、実はボーイフレンドにも隠していたんですよ。

 

Y: それは辛かったでしょうね。

N: ホバートで大学に行くようになってやっと私は私で良いんだと思い始めました。日本人でありたい気持ちを隠さなくてよくなっただけではなく、日本に対する懐かしさに似た気持ちを感じはじめました。当時のタスマニアではあまりいい日本食も手に入らなかったので、日本の物に触れたいとか日本の人に会いたいというような。

新しいことを学ぼうと真剣に勉強し始めた時、なぜ自分がどこにも属していないように感じるのかを問い始めたんです。私はどうして自分が日本人だと感じないのか、どうしてオーストラリア人だとも感じないのか、ですね。大学では授業の中で自分が感じていたアイデンティティーの問題を深く見つめて理論的に考える機会があって、自分の中でもっとはっきりしてきたんです。

 

Y: それは言語のクラスでですか。

N: そうです。“Queering Japan”というコースがあって、それがとても面白かったんです。クラスではいろいろなこと、例えば日本の中でのアイデンティティーとかについて勉強するんですけど、その授業で初めて日本人論と「日本人って何ですか」という問いについて知りました。そこで「私って日本人?」と考えました。アイデンティティーというものが実際にはどんなものなのか見ていって、学術的に理解しようという内容の授業でした。

私が自分の「居場所」ということについて考え始めたのは高校の時だったと思います。スピーチコンテストに「私にとっての居場所とは何か」という題で出ました。

 

Y: ニーナさんはこのアイデンティティーの問題について随分長い間考えてきたんですね。

N: 私にとって言語は二番目だと思います。

 

Y: 二番目とは?

N: ええ、言語は道具ですね。私は言語が好きなので個人的には楽しいです。日本語を学習するのは私にとっては問題ではありませんでした。アイデンティティーの方がもっとややこしかったんです。それと、人が持っているアンコンシャスバイアス、いわゆる無意識の偏見や、日本でもオーストラリアでも見られる微妙な人種差別をどうやって乗り越えるかもですね。日本の中では、どうやったらよそ者だとか本物の日本人じゃないと感じずに「私は日本人です」と言えるかということもですね。

 大学の時に交換留学生として半年日本にいたんです。正直に言ってその時にショックだったのは、何遍もどうして日本語が話せるかというのを説明しなくてはならなかったということです。例えば学食のおばさんとかに「日本生まれで父は日本人です」と説明しなくちゃいけなかったんですが、どうしてそんなことを説明する必要があるんだろうと思いましたね。

誰かが私の顔を見るたびにいちいち説明しなくちゃいけないというのが嫌でしたね。本当に何遍も聞かれましたし、よく日本語が上手だと褒められましたし。

今までの私の人生の道のりの一部ですが、こんな感じです。まだ今でもその途中ですけど。

 

Y: 興味深いですね。

N: 日本人でいることの難しさに対処するためには、多文化のバックグランドがある人たちと繋がりを持つことが必要でした。例えば姉とか、中国系シンガポール人のハウスメイトとか。みんなでアジアの食べ物とかポップカルチャーなどの話をしたりお互いにオープンに話し合ったり、それが私にとっては日本語を続けるモチベーションにもなります。周りにいてくれるコミュニティー・仲間が大事だと思います。

 

Y: 自分を理解してくれる、一緒にいて居心地よい人たちですね。

N: そうです。こちらがビクビクしなくていいような人たちの集まりです。

例えば、もし言語の面でちょっと自信が持てない部分があったりすると、私の場合は敬語なんですけど、それだけでもう仲間に入りづらいというか外部の人間という気持ちになるというか。なので、必ずしも日本の人たちと一緒にいないといけないというわけではなく、私にとっては自分のバッググラウンドや文化を誇りに思える人たち、いろんな文化の人の集まり、それぞれの文化の食べ物、ダンス、服、ストーリーなどをお互いに教え合うのが好きな人たちと一緒にいるのがよかったんです。そういう仲間といると今度は自分のバックグラウンドについても掘り下げて考えたくなってりして、日本人であることもオーストラリア人であることも誇りに思えるようになる。

私みたいに言語はアイデンティティーの次と思っている人は他にもたくさんいると思います。言語は道具で日本や日本の人や日本のメディアと繋がるために使いますが、日本語そのものが日本人でいたいというモチベーションになるわけではないんです。わかっていただけるかな。

 

Y: おっしゃっていることわかります。

N: 私は人からああしろこうしろと言われるのが好きな方ではないので、自分で自由に芸術・アートや他に知りたいこととかを選んで調べたりしていくうちに日本語も勉強したいと思うようになっていったんです。もしも誰かから日本語を勉強しなさいとか学問として続けなさいとプレッシャーをかけられたりしてたら拒絶していたんじゃないかなと思います。

日本語は日本人としてのアイデンティティーの大きな部分ですけど、私にとっては言葉ではない、他のもっと自分にしっくりくるところがあるんです。スピリチュアルなものかもしれませんが。

今思えば、それぞれの文化から自分が共鳴できるところを選んでるっていうところはありますね。

 

Y: それはいいですね。

N: いいところだけをとって、あとはほったらかし、というか。

でも母はいつも私たちが日常の生活で日本語に触れられるように努力していました。母に怒られる時はいつも日本語でした。

 

Y: それって、日本語に対してマイナスのイメージが湧くんじゃないですか。

N: そういうこともあったかもしれませんが、大きな目で見るとそうでもなかったです。私たち家族にとっては、食べ物が大事な部分でした。私たちのために母は日本食を料理してくれました。今でも「いただきます」、食事のあとは「ご馳走さま」と言うんですよ。うちにお箸がないという場合は、「(お箸がないなんて)どうしちゃったのよ?」という感じで(笑い)。こういう小さなことの積み重ねが、日本語を続けたいという励みになります。

 

Y: それに「いただきます」や「ご馳走さま」は単なる言葉だけではありませんよね。生活の中でのものの見方考え方でもありますよね。 

【後編に続く】


 

モリオさん

*セミナーご参加後、しばらくしてからのインタビューとなりました。

まず、今の大学での勉強について伺いました。

 

「僕は日本語と、英語と両方使えるので、翻訳・通訳を学びたかったのですが、なかったので専攻を電子工学にしました。電子工学の専攻を始めてから修士課程に翻訳のコースがあることがわかり、それにつながる言語学に変更しました。」

 

----なぜ、翻訳や通訳に興味があるのですか?

 

「母が家でフリーランスで翻訳の仕事をやっているのですが、それを手伝うようになり、翻訳に興味を持つようになりました。家を離れて寮で生活するようになった今も、時々翻訳や通訳のアルバイトをしていて、それが楽しいのできちんと学びたいです。」

 

-----うちではいつも英語と日本語を話していたのですか?

 

「父も母も日本語も英語もわかりますが、基本的に母が日本語を話し、父が英語を話しています。両方の言葉が混ざることも多いです。日本語で話していても英語の方がしっくりくるときはそこだけ英語になったりすることも多いです。逆もあります。5歳下の妹とはうちでは日本語、外では英語ですが、二人の間では日本語が普通なので、英語を話す時は、ちょっとむずむずします。他の人でも同じです。いつも日本語で話している人と周りの人に合わせて英語を話す時は、変な感じがします。

 

子どものころに日本語と英語の間で混乱したという記憶はありませんが、いなかに住んでいたので、よその人に会うことも少なく、大勢の人にあった時に何語を話していかわからないこともあったようです。小さい頃日本の親戚の集まりに行った時のことですが、父が眼鏡をかけていたためか眼鏡をかけている人に英語で話しかけたが通じず、今度は男の人には英語で話しかけていたという話を父に聞いたことがあります。」

 

 

-----子どもの頃家族以外と日本語を話す機会がありましたか?


「学校ではずっと英語だったので、普段はありませんでしたが、小さいころから10年生まで家族全員(父、母、僕、妹)で、一年に1回1ヶ月ずつぐらい日本に行っていました。滞在のたびに日本で水泳などの習い事をしていて、そこで友達ができたので、家族じゃない人と日本語で話ができたのはよかったと思います。」

 

-----うちで日本語を勉強していましたか?


「母と日本語の本を一緒に読んでいました。自分で音読してわからない言葉は母が教えてくれました。頭の中で読むのと声に出して読むのは全然違うと思います。

 

読んでいた本は日本にいたときに母と本屋さんに行って一緒に選びました。モノの仕組み図鑑のようなものが好きで、電子工学に興味があったので、電気の仕組みなどを面白いと思って喜んで読んでいました。今は大学の図書館にある日本語の本を少し読んでいます。」

 

-----音読するのを嫌だなあと思ったことはありませんか?


「時々めんどくさいなあと思うこともありましたが、今となってはやっていてよかったと思っています。これのおかげで日本語を読むのが苦にならなくなりました。

日本の漫画やアニメが好きで、それを日常的に見ていたので無理やりという感じはありませんでした。」

 

-----モリオさんにとって日本語はどんな存在ですか?


「日本語は自分を作っている部分の重要な部分を占める、大きな存在です。

日本の国籍はありませんが、日本から来た家族がいて自分も日本語を話すので、日本も、日本語も自分のアイデンティティの大事な部分です。これまで日本語と一緒に育ってきたし日本語は僕の人生を大きく左右してきたと思います。」

 

-----日本語を使ってどんなことができるようになりたいですか?


「日本に行って不自由なく暮らせるようになりたいですね。

子どもの頃行った日本がとても居心地が良かったんです。オーストラリアにいても日本にいる時はよかったなあと思うこともあります。もちろん、子どもの頃の記憶が美化されているのもあると思いますが。

 

それから、大人の日本語を使えるようになりたいです。僕は、学校や職場ではなく、うちでしか日本語を使っていないから、子どもっぽい日本語を話していると思います。だから、話している相手との距離が近く感じます。

英語では、相手によって話し方を変えられるので、距離のとりかたも様々ですが、日本語は誰と話しても同じようながします。」

 

-----今は家族と離れて大学の寮で暮らしていますが、日本語を使うことはありますか?


「今、大学のJapanese Studies Society に入っているので、そこでいろいろな活動があって日本の大学の人と話す機会もあります。勧誘されて入ったのですが、入っていなければ今ほど日本語を話す機会はなかったと思います。日本語を長く話さなければ衰えるかもしれないと思いますが、ブリッジタウンと比べてパースにはいろいろ日本文化(イベント、お店、レストラン)が見られるので以前より日本との距離が近くなったような気がします。」

 

-----最後に日本語を話す子どもを育てている家族に何かアドバイスがありますか?


「嫌がる子もいると思いますが、将来必ず役に立つので日本語を使うのをやめないでほしいと思います。簡単な会話でもいいので、子どもが英語で話しても日本語で普通に話を続けてほしいです。

 

それから、日本語の本を読むのはいいと思います。特にフィクションは内容に惹かれて楽しめると思うので、楽しく日本語に触れられるのではないでしょうか。

あとは、子どもが興味を持つものを日本語で提供することと、ほかの子どもたちと一緒に日本語で時間を過ごすのも大事だと思います。」

 

エイミーさん

Q1. 今回のセミナーに出席した感想を聞かせてください。面白かったこと、驚いたこと、またご自身にとって役にたったということがあれば教えてください。


 このセミナーで一番いいなと思ったことは、他のパネリストの話を聞いてオーストラリアのどこで育ったかに関係なく成長する過程で私たちは皆似たような経験をしていたというのがわかったことです。小さい時に自分だけだと思っていたことを皆も同じように経験していたというのにちょっと驚きましたし、非常に面白いと思いました。今はもう子どもではありませんが、それでも他の人も同じだったとわかって少しホッとしています。それだけでもこのセミナーに参加できて良かったと思います。

それにセミナーに参加した親御さんや先生方の繋生語についての考えを聞けたのも良かったです。こういう話は自分の親とか先生とかとはあまりしないと思いますから、みんなの考えが聞けて非常に興味深かったです。

 

 このセミナーで学んだことは、コミュニティーの大切さ、自分をサポートしてくれる人のネットワークの大切さです。このようなネットワーク、コミュニティーはどこにでもあるわけではありません。でも、それなしでは 自分が何者かを深く考え文化的アイデンティティーを築いていくのは本当に難しいと思います。


Q2. セミナーの終わりの方で繋生語キッズ同士が繋がれる機会があるといいという話が出ましたが、どうやったらそういう機会が作れるか何か意見があれば教えてください。

 

  繋生語キッズと親が一緒に集まれる機会があれば、親にも子どもにもたいへん役に立つと思います。それは今回のセミナーに似たところもあるかもしれませんが、もっと小さなスケールでもっと頻繁にあるものがいいと思います。そうすれば親同士もお互いにアドバイスなどして助け合うことができるし、また子ども達にもあるいは子ども達と一緒にサポートし合えると思います。

家族みんなで参加できるコミュニティーがあれば、自分と同じような人や家族と会うことができていいと思います。

 

 日本文化のいろいろなこと、例えばお祭りとか日本の祝祭日などをもっと簡単に経験できる場があれば、子ども達も小さい時から日本の文化に触れてもっと身近かに感じることができるかもしれません。よくバイリンガルというのは言葉についてだけ言われるように思います。でも、文化的な面やアイデンティティーというのは同じぐらい、いえ、もしかしたらもっと重要だと思います。ですから、そういう側面ももっと大切にしないといけないと思います。


Q3. 何か他に付け加えたいことがありますか。このニュースレターを読まれる皆さんに伝えたいことはありますか。


 お父さんかお母さん、あるいは両親とも日本人の家庭に育っているけど、日本語を話さない繋生語キッズの話を聞いてみたいと思います。私の場合は言葉が大事で、言葉を通して自己の成長や母との関係がより豊かなものになったと思いますし、今でも自分の文化的アイデンティティーの土台になっていると思います。ですから、日本語なしで日本や日本の文化とどうやって繋がっているのか知りたいと思います。

 繰り返しになりますが、セミナーに参加できてたいへん良かったです。皆さんが繋生語コミュニティーについて真剣に考え大切に思っているのを見て感動しました。どうもありがとうございました。


ジョンさん

Q1.

 今回のセミナーはたいへん興味深かったです。

 私自身のようにオーストラリアで生語を使う環境で育ってきた他のパネリストの皆さんの経験談を聞けたのがとてもよかったと思います。特に他のパネリストの方々が自分と同じような経験や思いをしていたというのが特に印象に残りました。海外で暮らしながら日本とのつながりを保つのが難しいということだけではなく、英語も日本語も話せるとプラスの面もたくさんあるというのがよくわかったと思います。自分と同様に皆もまんが、アニメ、その他の日本の文化が好きだというのを聞いて、昔からの考えのように単に言葉として日本語を学ぶだけではなく、趣味や好きなことをするのに日本語を使うというのが大切だと改めて思いました

 

 ブレイクアウトルームで他の参加者の方々と話したり、生語でお子さんを育てている親御さんの考えや悩みを聞けたりしたのもよかったと思います。たくさんの方々がお子さん達に日本語を学んだり日本の深い文化に触れたりできる機会を作るために、あらゆる努力をされているのを知り本当にすごくうれしく思いました。


Q2.

 オーストラリアでは国際交流基金が文化交流関係の事業を行っていると聞いています。国際交流基金とタイアップして何か展示会やイベントをすると繋生語で育つ子どもたちにも興味を持ってもらえるかもしれません。

 日本映画祭や日本まつりフェスティバルには繋生語と関係している人たちもたくさん来ます。そのようなイベントを通してコミュニティーを大きくしていくのもいいかもしれません。そういう集まりに来る人たちにどうしたら繋生語コミュニティーの仲間の一人だと感じることができるのかなど聞いてみるのもいいでしょう。


Q3.

  繋生語として日本語を学んでいるすべての皆さんにぜひお伝えしたいのは、英語と日本語が両方話せるというのは素晴らしいことだということです。この二つの言語が話せるのは自分にとっては最強の道具だと思っています。これは個人的にもそうですし、仕事の面でもそうです。二つの言葉が話せるとそれだけ世界が広がり視野も広まります。自分にとってはそれがこの上なく役に立ったと思います。

 

 個人的なレベルでは、日本語ができることで、人とコミュニケーションをとる際に、何かにつけ、より細かいニュアンスが伝えられるようになったと思います。

どちらか片方の言語にしかない感覚などをもう一つの言語に活かすことができたからだと思います。

仕事の面では、英語だけしか話せなかったら絶対になかっただろうと思われるチャンスに数え切れないくらい恵まれました。日本語と英語の両方ができたおかげです。

 

 特に日本に住んでいない場合は、日頃日本語を使うのが難しいことがあると思います。でも、日本語とつながっておくのは、将来必ず何らかの役に立つはずです。そのつながりは家族や友人達と話すことかもしれないし、漫画を読んだり、アニメを見たりすることでかもしれません。将来オーストラリアでもっと繋生語キッズが増えることを祈っています。


ニーナさん

Q1.

 今回のセミナーは、みんなが参加できて、内容も興味深くたいへん勉強になりました。

最近はオンライン・バーチャル会議やイベントがたくさんありますが、今回のセミナーは私が今まで出席したものの中で一番よくオーガナイズされていたものの一つだったと思います。

最近日本語を話していなかったため、セミナーで日本語を話すのが少し不安でしたが、英語と日本語を使って自分の気持ちを率直に伝えることができ、皆さんにしっかりと受けとめてもらえたという気持ちになりました。

 

 セミナーではなぜ今「繋生語」なのかという背景の説明が十分あって、私たちパネリスト全員が各自の日本語と英語で育ってきた経験や考えについて話せる機会を設けてくれました。現代の繋生語キッズ達がどうやって日本語と触れあっていきたいか、また家族がどうしたら繋生語キッズの能力を伸ばすことができるかなどを全員が一緒に話し合い、いろいろな素晴らしいアイデアを出し合えたと思います。

 私自身も他のパネリストの方からいろいろ学ぶことがありました。

 私たちは全員似たような経験をしてきましたが、育つ環境によって皆違う問題があるのだと改めて認識しました。例えば、パネリストの中には家庭内で日本語を使いながらオーストラリアで育った人もいました。一方で私の場合はオーストラリアで育ちましたが、家族とはだいたい英語を話して育ちました。このような環境で育ちましたから、私にとって日本語は日常普通に使う言語という意識はありませんし、日本語の流暢さにも影響があったと思います。またオーストラリアの田舎に住んでいると、都会に比べて参加できるコミュニティーや仲間も少なく何かを学べる場なども限られていたりします。

 

 より個人的なレベルでいうと、普段日本人であること、オーストラリア人であることから生まれる葛藤や素晴らしさについてや、日本語が自分にとってどれだけ大切かなどについて話す機会は滅多にありません。このセミナーで、話す機会を与えていただいて本当にありがたいと思いました。

それに、このセミナーを通して多文化バックグランドを持つ人たちと一緒に、またそのような人々みんなに共通する多言語を学ぶという経験を通じて、ともに喜びを分かち合い一緒に強くなれるようなコミュニティーを築きたい、という思いが強くなりました。

 

 このセミナーで学んだことは、私にとって日本の文化を知り、日本語を通じてコミュニティーや家族の人たちと繋がれるのは大きな喜びでとても特別なことだということです。これは私自身のアイデンティティーのかけがえのない一部であり、大勢のオーストラリアで生きる日本人のアイデンティティーの一部であると思います。ですから、この繋生語研究会のようなグループのおかげで、私たちは一人じゃない仲間がいるんだと思えるようになると思います。

 

Q2.

 はい、繋生語で育ってきた他の人たちと繋がることは素晴らしいと思います。

セミナーでも出ていましたが、インターネットを通してバーチャルで会えれば人と繋がる機会が増えると思います。繋生語研究会はセミナー、ニュースレター、ソーシャルメディアを通じて既に活発に活動しています。必要を感じている人たちにたくさんアクセスしてもらえるように日本語と英語と両方で発信するのがいいと思います。

 

 他の人に会うためにはもっと小さな地域でグループを作るのもいいと思います。例えば、大きな州や都市に一つずつ設ければ、そこから広い範囲、特に地方にむけて発信できるでしょうから、いいと思います。私自身も、小さい時にタスマニアでこのようなグループがあったら、同じような環境の人と出会えて非常に役に立ったと思います。他にも日本関係のグループがあるのは知っているのですが、日本語がある程度はできないとなかなか入りづらく、近寄り難い気がします。

 もっとローカルな小さいグループを作るためには、個々のグループをリードできる人が今よりもっと必要になるということです。そのためには、繋生語に興味のある人をもっと育てて、今回のセミナーで話し合ったようなことが話せるようにしなければならないと思います。

 

 このようなグループが人に興味を持ってもらうには、あまり勉強っぽく難しくせずに子どもたちが楽しいと思えること、そしてこれは自分と関係があることと思えることが大事だと思います。流行のポップカルチャーや漫画・アニメ、J-Pop、その他のメディアを取り入れることもできると思います。

 

Q3.

 二つの国で二つの言葉を使って育った日系のオーストラリア人として、時にはどちらか一方の文化と関わるのが難しい時がありました。特にまだ幼い時に仲間外れにされないように周りの人たちに溶け込みたいと思って、日本人としてのアイデンティティーや日本語から離れていった時もありました。私のこの考えが変わったのにはいろんな原因があったと思います。

 もちろん、大きくなるにつれバイリンガルであるということで、人生のチョイスも増え、それがどんなに素晴らしい特別なことなのかということがわかったというのもあります。でも、日本語をもう一度学びたいと思った本当の動機は、周りに自分をサポートしてくれる人たちがいて、私と同じような境遇の人たちに出会えたからでした。

 

 それは、メディアやポップカルチャーに私たちのような人がもっと出てくるようになってきたことや、あるいは支援をしてくれる教育機関を通じてだったり、一層多様性に富んだ多文化のバックグランドを持つ新しい友達を作ったりなど、いろいろな形での出会いでした。

 自分のバックグランドを受け入れて、もっと知りたいと思うようになる過程は一人一人違いますが、周りに協力してくれる人がいるというのは誰にとっても一番大きなことだと言えると思います。

 

 私のような環境にいる子ども達の親御さんや先生方には、どうぞ焦らないでほしいと伝えたいです。アイデンティティーの問題は大変複雑で、時には日本語の勉強をやめたいと思うこともあるでしょう。そういう時は励まして支えてあげてください。皆さんの努力は必ず報われると思います。

私のオーストラリア人の母はタスマニアの田舎で私と姉の二人を育ててくれました。二人とも日本にバックグランドを持っている娘です。日本から遠く離れて日本語や日本のものが周りにない所でどんなにか大変だっただろうと思いますが、母はずっと日本料理を作り続けてくれ、近くに日本の人がいれば私たちに会わせてくれ、学校・大学を通じて日本語を学び続けるように応援してくれました。

私と姉にしてくれたことを思うと母には感謝しきれません。そして今、私はオーストラリア人でもあり日本人でもあるという自分をとても誇りに思うのです。


上記の先輩が参加されたセミナーの様子をもっと知りたい方は、ニュースレターの報告をお読みください。こちらをクリックすると開きます。

『繋生語の元こどもたちは、今』に参加して

尾辻恵美(シドニー工科大学)


5月14日(土)に第9回目の繋生語のセミナーが開催されました。今回は趣向を少し変えて研究者や教師の視点からのセミナーではなく、当事者の声を拾うことを目的とし、「繋生語の元子ども」たちを招きました。NSW州からはAmy BezzinaさんとJohn Brownさん、WA州からはMorio Freemanさん、そしてTAS州からはNina Hamasakiさんの合計4名の若者に登壇して頂きました。セミナーはパネル形式をとり、「過去、現在、将来」という時間軸に沿って、経験や思い、そして将来の展望などについて話してもらいました。司会進行はイラストレーターであり、かつ「繋生語の元こども」であるトムソン華さんと、本稿筆者の多言語社会の研究を専門とする大学教員の尾辻恵美が務めました。言語は日本語や英語に拘らずに、自分の気持ちに合ったことばを使っていいことにし、適宜に日本語で説明を補うという形をとりました。

 

「繋生語の元こども」であるとは言え、登壇者4人が辿った軌跡や経験は違いました。都市で育った若者、日本人が少ない小さな町で育った若者、日本語から一時離れてしまった若者、補習校に行かなかった若者、家でも家族や兄弟でよく日本語を使っていた若者、そして幼少時に日本に住んでいた若者と様々でした。それだけに、多面的な話が聞け、多様な意見や視点を提供してくれました。繋生語との関わり方は一つだけではないこと、日本語・日本文化との関係は複数的・動態的なもので、「基準」もマニュアルもないということがわかりました。

 それぞれ日本語で苦労したり、辛い思いをしたり、また日本語を使うのを休止したりという経験をしたことも知りました。振り子のように「日本」から離れたり戻ってきたりする過程で、自分に合った心地よい距離感や関係性を築いてきたようです。一人のパネリストは「いくつ漢字を覚えたとか、どれだけ話せるようになったというような、競争ではない」と言いました。「日本人らしくなる」「日本人らしく話せる」ことが、決して彼らの到達目標でもなければ、人格形成の役に立つわけでもなく、振り子のように揺れながら多文化、多言語を持つ「自分」となることこそが彼らにとって大切であったということを話を聞いて理解しました。

 また、一時的に「日本語」「日本」から離れた若者も、大学でまた日本語を勉強したり、日本に引っ越したり、日本語で再び兄弟と話すようになったりと、「戻ってきている」ことも印象的でした。全員の登壇者が日本との繋がりや日本語が話せることに感謝しており、ポジティブな発言が多かったのも、今回のパネルの特徴だったと言えるでしょう。しかし、このような姿勢は一朝一夕に生まれたのではなく、彼らは多様な立場に立たされ、様々な葛藤を経験した結果、視野が広がり、与えられた文化的アイデンティティを鵜呑にみせず自分で判断をする能力がついたからこそ、今の自分を肯定的に捉えられるようになったようです。登壇者の一人から「日本かオーストラリアのどちらかを選ぶのではなく、自分は『ダブル』である」という発言がありました。それを聞いて、他のパネリストも、聴衆も強く同調していました。また、「ダブル」とは単に日本・オーストラリアが足し算的に別々に存在しているのではなく、彼らは二つがきれいに線引できない言語文化の複合的なところに生きているということも、話から明らかになりました。そして今、それが強みになっているようです。このように、既存のものを疑い、何か新しいものを産み出すことができる、柔軟で、広い視野を身につけている言語・文化的に資源豊かな彼らは、未来を担う大切な人材になるであろうと、皆さんの話を聞いて確信しました。

 司会の華さんを筆頭に、お互いの話を聞きながら、首を大きく縦に振っている様子がズームの画面上に写っていました。「繋生語」や「繋生文化」について異なった経験や関係を持っていても、根本的なところでお互いが強く共感している様相が手にとるように感じられました。彼らは今回のセミナーに参加することによって、自分と似たような背景をもった若者と交流できたことを喜んでいたようでした。また、セミナー後のアンケートを読むと参加者も彼らの生の声を聞いて非常に感銘を受け、勇気づけられていたようです。登壇者に最後に一言ずつメッセージをお願いした時に、顕著だったのはコミュニティの形成の必要性についてでした。補習校で一時的に友達ができたりはするでしょう。けれども、大きくなっても、また人生のどの時期にでも、戻ってこられるような「安心できる」場所がありません。もちろん具体的にどうやって、どのようなものを形成するのかという課題はあります。しかし、参加していた親、教師などもコミュニティの形成を切望していたようですので、今回のセミナーを出発点として「繋生語」にまつわる様々な人を巻き込んでコミュニティを形成する「しかけ」を作っていけたらいいのではないかと思いました。

 セミナーの最後に、日本語以外の「繋生語」のコミュニティとも繋がることによって、彼らのように複合的な背景を持っている子どもたちは「特別」な存在ではないということを社会にもっと訴え、人の意識の改革が必要であるという大きな社会的な話題も出てきました。「繋生語」のコミュニティのメンバーが力を合わせてよりよい社会を作るためにできることのヒントがパネルディスカッションのあらゆるところに散りばめられていました。

 

 パネリストから生の声を聞くことができ、また参加者とも直接ブレークアウトルームでも歓談する時間をとることができたため、登壇者、参加者ともに、とても有意義な時間を共有できたようです。何人かの登壇者は自分の子どもへと、さらなる繋生を考えていました。繋生語のコミュニティがどんどん広がり、進化していくことがこれからとても楽しみです。社会分断などが問題となっている昨今、「異質」なものに対して寛容で前向きな「繋生語人・繋生文化人」は社会・世界の宝だと言えるでしょう。この宝を多く産み、磨きをかけるような環境・コミュニティを、このニュースレターを読んでいただいている方々と一緒に作っていけたらと思います。


注:豪州繋生語 (けいしょうご) 研究会(Australian Network for Japanese as Community Language)ニュースレター  2022年6月 第5号より抜粋。

さらに、繋生語の元こどもたちの経験を知りたいという方には、ドイツ発、複言語ファミリーをつなぐポータルサイト「つなぐ」のティーンズ座談会 ―ドイツと日本で生きるをお勧めします。

特別イベント 9月2日 Connecting Futures - 「つな豪未来」

国際繋生語大会 2023年 9月1日 - 3日》